2012年01月25日

 目的の邪魔なこと

  「自分らしさ」を見つける、
  「自分の好きなこと」で成功する、
  というたぐいのセミナーが流行っていた。
  あえて、過去形にする。

  私は、よく知っている。
  私自身、5年も関わったから。
  これも過去形。


  どれだけ多くの、
  「やりたいことがわからない」
  「すきなことがわからない」
  という人々に会っただろう。
  悲しかったし、罪悪感も感じた。


  絶対、おかしい、と思った。


  教育制度がおかしい、のは当然だけど、
  やっぱり社会全体の統一化するシステムがおかしいのだ。


  1人の人間が生まれ、平均的に教育制度を受けて、
  平均的に就職して、結婚して、家族が増えて、
  そこそこ安定しながら、老後を迎える、というシナリオをよく見ていくと、
  本当に、好きなこと・やりたいことなんか、入る余地がない。

  そして、真面目な人、誠実な人ほど、
  わからない度が高かった。
  痛々しいほどに。


  でも、そういうセミナーに参加するくらいだから、人生に満足はしていない。

  何かが足りない、と思うからこそ、来ている。


  そういう人たちが、好きなことを見つけていく課程で起こることが、印象的だった。

  まず、頭で探すのだ。

  子供の頃、好きだったことを頭で思い出そうとする。

  ちょっと興味のあること、趣味のようなもの、
  その中から、「本当にすきなこと」を頭で判断しようとする。


  感性が働かない。
  心が動いていない。

  頭で探したって、わかるはずがないのだ。

  好き・嫌いは、知性の判断ではない。
  感じるものでしょう。


  それがわかっていても、どうしても頭から離れない人がいる。


  理由は、簡単なのだ。

  「目的」があるから。

  好きなことを見つけて、豊かになる、幸せになるのだ、という目的。

  それが、感性の邪魔をする。


  目的というのは、100%、知性の活動。
  知性的働き、頭の働きをスタート地点とするから、その直線上から離れられない。


  好きなことや、やりたいことは、
  ただ好き、ただやりたい、というだけのこと。

  ただ、好きでやりたいから、それが楽しいから。それだけ。


  そして、それは、感覚・心で感じるもの。


  知性を休ませる。

  言葉から離れる。
  言葉は、もっとも知性を活性化する。
  言葉は、一瞬で意味を考える、という知性の活動領域へ連れてってしまう。


  好きなことがわからない、という人は、
  自然の中で、のんびり頭を休ませて、
  全身で、自然のエネルギーを感じることをおすすめする。
  自然に目的意識はない。
  生きるのみ。

  週末ごとに、近所の公園であってもいい。

  毎日、15分でもいい。

  生命のエネルギーを感じるだけでいい。


  身近に子供のいる人は、一緒に遊ぶといい。

  目的のない遊び方を教えてくれる。

  脈絡のなさ、理論構築のなさ、
  上下左右のなさ、枠組みのなさ。

  びっくりするほど、はずしてくれる。

  
  人間は、想像もつかないほど、
  可能性に満ちた、美しいもののはず。

  その機能を取り戻さなくちゃ。




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2012年01月24日

 頭から心へ

  多くの人が、頭に住んでいると感じる。

  頭が良い人ばかり。
  皮肉ではない。
  本当に知性が闊達だと思う。
  みんなちゃんと計算している。


  常に頭にいる、ということは、
  頭で考え、計画し、行動し、結果を見ること。
  すべて、頭での体験。

  どこに、幸せの入る余地があるのだろう。
  幸せは、心でしか感じられないのに。


  そして、そんなにも頭を使って、
  一生懸命がんばるのか、と言えば、
  「幸せになりたいから」
  なのでしょう。

  それ自体が、皮肉なことではないか?


  頭から、心へ移動する。

  心にいると、傷つくことを「感じ取らなければならなくなる」。

  それがイヤで、頭で解決しようとするのだけど、
  頭では、解決できないものがある。

  感情は、知性で癒せない。

  考え方を変えると、現実が動く、というのは、本当だけど、
  考え方は、感情を伴っている。
  欲のバックアップもある。

  トータルで見なくては、考え方ひとつでも、
  真から変えることはできない。

  自分の持っている、知性も、感性も、心も、
  総動員であたる。

  全身の機能で「わかる」という体験は、
  衝撃的に心地よい。

  そして、2度と失われない。
  忘れることが、ない。




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2012年01月23日

 動きと調和

  和の国、日本。

  和を持って、尊しと成す。

  私たちは、どこかでそれを誇りに思ってきた。


  もう一度、問い直す。


  和というのは、
  違うものがたくさん集まって、
  その上で、調和する、ということだ。


  同じものがたくさん集まっていたら、
  和など必要ない。

  同に、調和などいらない。
  動きがないのだから。

  すこぶる静かだ。
  動きがないのだから。

  何の問題もない。
  動きがないのだから。


  動きがない、というのは、
  変化がない、発展もない、停滞していること。

  停滞は、死に向かう最短コース。


  みんなと同じ、は、安心だろう。

  でも、みんなと同じじゃいやだ、
  個性を大切にしたい、という声もずっとあがっている。


  小さい頃、みんなと同じじゃないことで、
  傷ついた経験はないだろうか?

  同じか同じでないか、ということさえ気にすることもない年端のころ、
  突然、違う、ということを突きつけられる。
  そして、傷つく。


  それって、おかしくないか?

  もともと同じじゃないのだ。

  同じじゃないのに、それがために傷つくのは、おかしいと思う。


  多くの人が、そのような経験から、
  もう傷つかないでいるために、
  無意識にみなと同じ、そこそこ同じ、
  とりあえず違うことがバレないように、
  と自分を規制して生き始める。

  そのうち、違う自分を忘れる。

  それを良しとする、社会。

  そんな社会、共同体の常識がおかしい。

  そして、そういう社会は停滞し、死に向かう。


  停滞した社会に寄り添うよりも、
  『自分として生きること』を大切にする。

  それが、これからの生き方ではないか。




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2012年01月22日

 集合意識は巨大な鏡

  人というのは、自分の思いを隠したり、
  忘れたりするのが、とても得意だ。

  集合意識は、深く深く埋もれた思いを、
  映し出す巨大な鏡の役割をする。

  そんなにも巨大な鏡がないと、
  どうしても気づけないことがあるくらい、
  人は、見たくない感じたくないことを隠す。

  集合意識が動くと、否応なく、個人の中から刺激を受けた様々がでてくる。

  原発問題の例のように。


  もちろん、イヤなものばかりでもない。

  原発問題からは、派生的に、社会の不具合がボロボロと露呈した。

  それによって、一部の人々の中から、
  義憤や、まっとうさを求める思いもでてきた。

  生命の大切さを実感したり、
  自然を見直したり、
  その大切さ、愛おしさを思い起こしたりもした。


  不安・恐怖に喘ぐ人も、
  それゆえの無視や鈍感さを増す人もいる。

  集合意識を鏡にする学びは、
  本当、ちょっと大変なのだ。

  自分の問題とは思いがたいし、
  (例えば、某社の幹部たちを見て、自分も同じ言動をするとは思えないだろう)
  何より、集団の感情が動くがゆえ、
  それらが自乗で増していく。
  集団ヒステリー的現象も容易に起こる。
  巻き込まれないでいるのは、難しい。


  そのように集合意識が動いてから、それに揺さぶられて、自己の内面を見るよりも、
  普段から、地道に自分との対話をしている方が、はるかに楽だ。

  何か起こったとき、自分の中のどんな感情が動くのかわかっていること。
  その感情が動いたとき、どんな行動をとりがちになるかわかっていること。
  それだけで、パニック度がずいぶんちがう。

  多くの人が、混乱する中で、比較的でも冷静さを保てる。
  それが、人々のためにもなる。

  それは、感じない、鈍感でいる、というのとは、ちがう。


  今からでもできる。


  集合意識が動いたら、それから距離をとる。
  ひとり静かに、自分だけの感情と対話する。

  何を不安と思っているか?

  何を恐れているか?

  何を必要と思いこんでいるか?

  今、本当に必要なものは何か?

  自分だけのこと、として見ていく。


  見ていって、掴んだものは、
  自分にとっての真実だ。


  自分にとっての真実が、ひとつ増えるごとに、
  心の平安さを支える柱がひとつ建つ。




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2012年01月21日

 集合意識と原発

  集合意識というものがある。

  人類共通で持っている、
  人類がみんなで作り上げている意識だ。

  Aという考え方が良い、と思っている人が100人いたら、
  100人分のエネルギーの集合意識ができる。

  もちろんエネルギーなので、中に一人で50人分くらいの強い思いを持った人がいたら、
  149人分のエネルギーになる。


  ある、と言ってるけど、証明はできない。
  感じ取ることしかできないものだ。


  例えば、3人で食事に行く。
  1人がそばがいいと言っても、2人が中華がいいと言うと、
  それ以上反論しにくい空気が生まれないか?

  その空気が集合意識だ。

  2人の集合意識に、1人がおされた。


  それが、食事なら大したことではない(たぶん、汗)。


  3人いて、2人が、コンビニ強盗しようと言ったら、どうなるか?

  何となく押されて、荷担するか?

  きっぱり断れるか?

  それ以上に、やめろ!と説得できるか?
  断れても、止めさせられなければ、犯罪は起こる。


  これが3人でなく、10人の仲間内で9人がyesだったら、どうだろう?

  50人、100人・・・、
  人が増えるほどに、押される感覚は倍増していく。

  どう対応できるだろう?


  コンビニ強盗とか、明確に犯罪であるとわからない、
  「ある事柄」だったら、どうだろう?


  例えば、自分の町の人々のほとんどが、yesと喜んでいるか、
  無関心な事柄に、自分は賛成しかねていたら?

  それがいずれ、惨事を起こすだろうと、自分だけわかっていることだったら?


  自分の国の人々のほとんどが、yesか、無関心だったら、どうだろう?


  3人中2人の合意の意識でさえ、
  1人の人間には、大きく感じる。
  圧力になる。


  集合意識は、強いエネルギーの意志を出している人に、
  自分の意志をあずけてしまう人々のエネルギーが荷担することで、
  大きくなり続ける。


  国の方針、というのは、だから、
  その集合意識のエネルギーを見ると、
  とてつもなく、デカイ。

  想像すらできないほど、巨大なエネルギーになる。

  1人の欲得がちょっと増えると、
  集合意識全体では、どれだけ増えるか計り知れない。


  それと、20年も戦ってきた人がいる。
  ほとんど1人で。

  小出裕章教授だ。


  私たちは、ちゃんと起きなくてはいけない。




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2012年01月20日

 真実の喜び

  真実を知ることの喜びを体験する時代にいる、と感じている。

  真実は、人を自由にする。
  というのは、本当に本当なのだと思う。


  それがどれだけ悲惨なことだとしても、
  実体がわかる時、そこにはかすかな喜びがある。
  不思議な安堵感といってもいい。


  社会のシステムが、どれだけ醜いことになっていても、
  それを知った時に、どれだけ怒りや悲しみが湧きおこったとしても、
  心のどこかで、知って良かった、という思いが光る。


  たぶん、それは、解放感なのだろう。

  知った、ということで、もうそれにコントロールされることはない、
  少なくとも、意識の上では。


  意識の深いところで、解放されさえすれば、
  あとは、現実が変わる方へと行動するだけ。

  どうしたって、そうなっていく。

  そのような解放感・自由を感じて、
  なお、それに従わないでいることは、難しい。  


  表面的に騒ぎ立てる感情など、
  遙かに及ばぬ意思の力がある。


  だから、ありのままを見つめていけばいい。

  自分の内と外の両面で。

  どこにだって、真実は見つけられる。


  真実が、真の力を見せてくれる時代。


  そんな時に、地球にいられて、良かった。
  と、しみじみ。




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2012年01月19日

 教える幸福 教わる幸福

  知る・学ぶことの本質は、

  「それに触れている時に感じる何か」

  にあると感じる。



  それが何であってもいいのだ。

  それに触れて、自分の中の何かが動く。

  それによって得られる喜び・充足感・拡張感・一体感。

  知る・学ぶことは、とても幸福な体験。

  だから、人類は延々と地上で探求をしてきた。



  教える者は、あることについて自分が学んだ時の幸福感を、教えることで追体験する。

  教えている時、その感覚に戻る。

  そのことが教える者の喜びになる。


  そして、その喜びの感覚が教わる者にも伝わる。

  教わる者は、教える者が伝えてくれる教える者の喜びと、

  自分自身の喜びの両方を感じることができる。

  学ぶことの喜びが、増幅する。


  教える者は、その教わる者の様子から、

  喜びが増幅したことを目撃し、さらに喜びが大きくなる。


  幸福な関係。


  そのような「学び」が、学びだった。

  教育というシステムが確立される前は。


  今でも、システムの及ばないところで、
  そのような関係性は、ちゃんと存在する。

  でなければ、人類は、とっくに滅んでいたんじゃないかな。




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2012年01月18日

 死のタブーと麻痺

  死について考えることが足りてない、と感じる。

  生きていることは、すばらしい。

  死んではいけない。

  身辺に、死に直面すると、
  「もっと一生懸命に生きようと思った。」

  学ぶのは、それだけ?



  それ以上、死について考えないのは、
  死の恐怖を感じたくないからなのか。

  恐怖を感じたくない、だから普段はないことにしている。

  麻痺する感覚。


  それが、放射能汚染に対するリアクションとして、現れている気がする。

  生き物というのは、自分の身の危険は、
  一瞬で察知する機能を持っているのに。


  麻痺させたままでいると、

  肉体を死なせてしまう、危険なものから守れない。

  精神を死なせてしまう、危険なものから守れない。

  心を死なせてしまう、危険なものから守れない。

  魂を死なせてしまう、危険なものから守れない。


  死とは、肉体だけに起こることではない。


  肉体を維持するために、
  精神を犠牲にする。

  心を犠牲にする。

  魂を犠牲にする。

  それで、生きているのか?


  精神・心・魂を犠牲にして、生きていると、
  かえって肉体も守れない。

  それらが死んでいることで、感じる漠然とした不安・分離感・ストレス。


  それらを解消するためにしている、
  成人病の元になることども。

  圧倒的に不足する幸福感・充足感。


  肉体が維持されて、そこそこ快適なら、それでいい。


  それが崩れさろうとしている時代なのだ。


  死について考えることは、
  ほんとに、生について考えることなのだ。


  真に生きる。


  ※怖かったら、ごめんなさい。




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