2012年05月01日

 身体を忘れること

  座ってテレビを観ていて、
  「そうだ、お茶を飲もう。」と立ち上がる。

  寝ころんで本を読んでいて、
  トイレに行こうと、起き上がる。

  そんな時、
  「私は座っている。立って、そしてある方向へ向かって歩いている。」
  と意識することは、どのくらいの頻度であるだろう。
  たぶん、ほとんど無意識にやっている。

  意識しているのは、目的だろう。
  その目的を達成するための
  「座っている→立つ→方向を確認する→歩いていく」
  という身体の動きそのものは、意識していない。

  身体があるから、達成できるのだけど、そのことは忘れている。

  これは、極端な例かもしれないけど、そのプロセスの中に、
  目標達成にのめり込む怖さ、を観ることができると思う。


  目的しか、念頭にない。
  目的が達成されるまでの過程で起こることに、
  あるいは自分がやっていることに、あまり意識が向かず、
  自動的に反応していることはないだろうか。

  目的を達成することが一番で、
  そこまでの道のりは、無意識の体験にしていないか。


  身体を忘れる、というのは、そういうことのような気がする。


  でも、「トイレに立つのに、いちいち行動の過程なんか意識してらんない」だろう。
  特に、早く行く必要がある、切迫した状況である時は。


  ところで、早くトイレへ行かなくてはいけない、と言う切迫感を持って、
  目標へとひた走っている人を見かけないだろうか。

  受験、仕事、企業、目的を掲げて邁進する。
  時に、トイレへ行く時間も惜しんで。

  それくらいガンバラないと、達成できないのだ、と言う。
  そんなにガンバッテも達成できるかどうかわからないのだから、
  もっとガンバラなければいけないのだ、とか。


  かくして、先にある目的のために、今を忘れる。
  それを達成する道具でもある身体を忘れる。


  身体を忘れることは、身体感覚も忘れることだ。
  感覚がマヒしてくる。
  それでまともに達成できるのか。
  できたとして、どこでどう喜びを感じることができるのだろう。
  マヒしているというのに。

  目標達成に集中することで、忘れてしまうことは山ほどあるけれど、
  とりあえず身体のことは忘れない方がいい。
  (フツーに考えると、馬鹿げたことだな。)


  フツーに考えて、身体を意識しないでいると、無理が祟って大病をする。
  仕事に気持ちよく向かえるために大切なストレス発散を重視しても、身体はダメになる。

  そして、身体感覚が鈍り、感性・直感も死に始める。
  最後までガンバレるのは、知性・思考だろうけど、身体の限界と共に崩れさる。


  少なくとも、身体というものを意識していると、暴走は防げそうだ。

  今、座っている自分の身体、立ち上がった自分の身体、歩いている自分の身体。
  少しでも意識して感じてみると、たぶんいろんなことに気づく。

  今、自分の身体を意識することは、今にいることへの基本的な姿勢だろう。
  今にいない人にとっては、入り口となる。

  達成されるべき目的は、未来のどこかにあるかもしれないけど、
  それを達成する自分は今にいる。

  何かを体感・体験できるのは、今という瞬間だけだ。
  未来の目的に集中しているとき、意識は未来に起こって欲しい幻想の中にいる。

  幻想に遊ばないでいるには、
  身体に戻る、身体に注意を向ける、というのが手っとり早い。
  そうするだけで、意識や感覚が変わってくる。


  自然の中で、一歩一歩、大地を踏みしめながら、
  全身を感じながら散歩すると、
  不思議な軽やかさと、充電されたような活力が感じられる。




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2012年04月30日

 雑感 1

  自分らしさを見つけたい。

  探してもわからない。

  自分らしくないものを捨てていく。

  何が自分らしくないのかわからないから、

  とりあえず、何もかも捨ててみる。

  空っぽになる。

  意外と心地が良い。

  だから、いつも空っぽでいようとする。

  それでも繰り返し戻ってくるものがある。

  それが、ホントに自分らしいものだろう。



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2012年04月29日

 欲を満たすだけの行為は美しくない

  「欲を満たすためだけの行為は、美しくない」という、
  ほとんど本能的な不文律が、人間には、特に日本人にはある、と感じる。


  近年は、成功法則が元気で、

  「欲の肯定」=「自己実現」=「無価値観を捨てること」=「幸せ」
  的発想に傾いているけど、ただの行き過ぎ・勘違いだろう。
  これらがイコールになることはない。

  心で美しいと感じるかどうか、
  というのは、とても基本的で、
  人としての道を誤らない羅針盤なのだと思う。


  どうして?

  というのは、どうしても説明できそうもない。

  感じるもの、あるいは、感じ取る以前のことだから。


  でも、例えば、ごく初歩のことだけど、
  町外れの、自然がまだ残っている景色をみて、

  「美しいな」と感じるか、

  「ここを分譲住宅地にしよう」と考えるか、

  そんな違いだろう。


  分譲住宅にしよう、
  という人にも、美しい思いというのがあるかもしれない。

  「人が快適に住める場所を提供したい」
  というのが動機かもしれない。
  人の幸せを願っているかもしれない。

  でもそれは、視野のちっちゃな美しさかもしれない。

  人間にとっての幸せを広く深く考えていない、目先の目的かもしれない。


  ぱっと景色を見た瞬間、

  美しい、と感じるか、

  目的を達成する手段につかえる、と感じるかは、とても大きい気がする。

  目的達成のためには、何でも使って良い、
  という判断は、美しさを感じる余地がない。
  美しさを感じない、ということは、その方向へ押し進むことに際限がない。
  美しい物を壊している、という自覚がないから。


  心で感じる美しさは、人に喜びを与える。

  心で美しさを感じるとき、人はのびのびとした感覚を得られる。

  ゆるやかに広がっていく感覚。

  美しいと感じる対象と、自分との境目がなくなる感覚。


  日本人は、そういう美しさを感じる己の心を大切にしてきた。
  そのような心を失わないよう自戒してきた。
  だから、喪失の哀しみも恐れず謡った。
  それは、美しさを愛でる心の自然な動きだから。


  美しさを感じる心より、
  結果を求めることが大切になったときから、
  人の幸福度は、下がった気がする。

  そして、幸福度が下がったからこそ、
  この世に、目的達成セミナーがあふれ、
  カウンセラーやヒーラーといった人たちが必要とされる。

  医学は、病気が増えなければ、発達などしない。


  美しいと感じられるもの・ことは、
  自然の摂理に反することがない。

  それを感じる心をもっと信頼していいのではないか。



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2012年01月31日

 赤ちゃんの泣き声

  赤ちゃんの泣き声、というのは、たぶん、
  人の潜在意識まで届く。

  潜在意識を揺さぶり、その中にある忘れ去られた何かを動かす。

  思い出したくない何かだからこそ、それが動くとき、サイレンが鳴る。

  「静かにしなさい!」

  静かになって欲しいのは、
  赤ちゃんではない。

  自分の感情だ。

  自分の思い出したくない何かだ。

  できれば墓場まで、静かにしていて欲しい。


  でも、それを良い機会に見た方が楽になる。

  自分の中にあるものを知って、解放した方がいい。

  それは、腸の中の宿便のようなものだから(笑)。


  赤ちゃんというのは、そのように純粋なエネルギーを発露する。

  純粋であるから、意識の深いところまで届く。

  幼児も同じだ。


  その泣き声も笑い声も。

  そうやって、先に生まれ、純粋さを失いつつある者を癒す。


  動かされるのは、封印したいイヤなことばかりでもない。


  赤ちゃんの生命の躍動を見る。

  無邪気さ、純粋さ、繊細さを見る。

  美しさを見る。

  大切なものを守りたいという気持ち。

  誰かのために何かしたいという気持ち。

  弱い者を助けたいという気持ち。


  どちらが動くか、は、その時々かもしれない。

  どっちが動いても、ありがたいことではないか。




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2012年01月25日

 目的の邪魔なこと

  「自分らしさ」を見つける、
  「自分の好きなこと」で成功する、
  というたぐいのセミナーが流行っていた。
  あえて、過去形にする。

  私は、よく知っている。
  私自身、5年も関わったから。
  これも過去形。


  どれだけ多くの、
  「やりたいことがわからない」
  「すきなことがわからない」
  という人々に会っただろう。
  悲しかったし、罪悪感も感じた。


  絶対、おかしい、と思った。


  教育制度がおかしい、のは当然だけど、
  やっぱり社会全体の統一化するシステムがおかしいのだ。


  1人の人間が生まれ、平均的に教育制度を受けて、
  平均的に就職して、結婚して、家族が増えて、
  そこそこ安定しながら、老後を迎える、というシナリオをよく見ていくと、
  本当に、好きなこと・やりたいことなんか、入る余地がない。

  そして、真面目な人、誠実な人ほど、
  わからない度が高かった。
  痛々しいほどに。


  でも、そういうセミナーに参加するくらいだから、人生に満足はしていない。

  何かが足りない、と思うからこそ、来ている。


  そういう人たちが、好きなことを見つけていく課程で起こることが、印象的だった。

  まず、頭で探すのだ。

  子供の頃、好きだったことを頭で思い出そうとする。

  ちょっと興味のあること、趣味のようなもの、
  その中から、「本当にすきなこと」を頭で判断しようとする。


  感性が働かない。
  心が動いていない。

  頭で探したって、わかるはずがないのだ。

  好き・嫌いは、知性の判断ではない。
  感じるものでしょう。


  それがわかっていても、どうしても頭から離れない人がいる。


  理由は、簡単なのだ。

  「目的」があるから。

  好きなことを見つけて、豊かになる、幸せになるのだ、という目的。

  それが、感性の邪魔をする。


  目的というのは、100%、知性の活動。
  知性的働き、頭の働きをスタート地点とするから、その直線上から離れられない。


  好きなことや、やりたいことは、
  ただ好き、ただやりたい、というだけのこと。

  ただ、好きでやりたいから、それが楽しいから。それだけ。


  そして、それは、感覚・心で感じるもの。


  知性を休ませる。

  言葉から離れる。
  言葉は、もっとも知性を活性化する。
  言葉は、一瞬で意味を考える、という知性の活動領域へ連れてってしまう。


  好きなことがわからない、という人は、
  自然の中で、のんびり頭を休ませて、
  全身で、自然のエネルギーを感じることをおすすめする。
  自然に目的意識はない。
  生きるのみ。

  週末ごとに、近所の公園であってもいい。

  毎日、15分でもいい。

  生命のエネルギーを感じるだけでいい。


  身近に子供のいる人は、一緒に遊ぶといい。

  目的のない遊び方を教えてくれる。

  脈絡のなさ、理論構築のなさ、
  上下左右のなさ、枠組みのなさ。

  びっくりするほど、はずしてくれる。

  
  人間は、想像もつかないほど、
  可能性に満ちた、美しいもののはず。

  その機能を取り戻さなくちゃ。




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2012年01月24日

 頭から心へ

  多くの人が、頭に住んでいると感じる。

  頭が良い人ばかり。
  皮肉ではない。
  本当に知性が闊達だと思う。
  みんなちゃんと計算している。


  常に頭にいる、ということは、
  頭で考え、計画し、行動し、結果を見ること。
  すべて、頭での体験。

  どこに、幸せの入る余地があるのだろう。
  幸せは、心でしか感じられないのに。


  そして、そんなにも頭を使って、
  一生懸命がんばるのか、と言えば、
  「幸せになりたいから」
  なのでしょう。

  それ自体が、皮肉なことではないか?


  頭から、心へ移動する。

  心にいると、傷つくことを「感じ取らなければならなくなる」。

  それがイヤで、頭で解決しようとするのだけど、
  頭では、解決できないものがある。

  感情は、知性で癒せない。

  考え方を変えると、現実が動く、というのは、本当だけど、
  考え方は、感情を伴っている。
  欲のバックアップもある。

  トータルで見なくては、考え方ひとつでも、
  真から変えることはできない。

  自分の持っている、知性も、感性も、心も、
  総動員であたる。

  全身の機能で「わかる」という体験は、
  衝撃的に心地よい。

  そして、2度と失われない。
  忘れることが、ない。




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2012年01月23日

 動きと調和

  和の国、日本。

  和を持って、尊しと成す。

  私たちは、どこかでそれを誇りに思ってきた。


  もう一度、問い直す。


  和というのは、
  違うものがたくさん集まって、
  その上で、調和する、ということだ。


  同じものがたくさん集まっていたら、
  和など必要ない。

  同に、調和などいらない。
  動きがないのだから。

  すこぶる静かだ。
  動きがないのだから。

  何の問題もない。
  動きがないのだから。


  動きがない、というのは、
  変化がない、発展もない、停滞していること。

  停滞は、死に向かう最短コース。


  みんなと同じ、は、安心だろう。

  でも、みんなと同じじゃいやだ、
  個性を大切にしたい、という声もずっとあがっている。


  小さい頃、みんなと同じじゃないことで、
  傷ついた経験はないだろうか?

  同じか同じでないか、ということさえ気にすることもない年端のころ、
  突然、違う、ということを突きつけられる。
  そして、傷つく。


  それって、おかしくないか?

  もともと同じじゃないのだ。

  同じじゃないのに、それがために傷つくのは、おかしいと思う。


  多くの人が、そのような経験から、
  もう傷つかないでいるために、
  無意識にみなと同じ、そこそこ同じ、
  とりあえず違うことがバレないように、
  と自分を規制して生き始める。

  そのうち、違う自分を忘れる。

  それを良しとする、社会。

  そんな社会、共同体の常識がおかしい。

  そして、そういう社会は停滞し、死に向かう。


  停滞した社会に寄り添うよりも、
  『自分として生きること』を大切にする。

  それが、これからの生き方ではないか。




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2012年01月22日

 集合意識は巨大な鏡

  人というのは、自分の思いを隠したり、
  忘れたりするのが、とても得意だ。

  集合意識は、深く深く埋もれた思いを、
  映し出す巨大な鏡の役割をする。

  そんなにも巨大な鏡がないと、
  どうしても気づけないことがあるくらい、
  人は、見たくない感じたくないことを隠す。

  集合意識が動くと、否応なく、個人の中から刺激を受けた様々がでてくる。

  原発問題の例のように。


  もちろん、イヤなものばかりでもない。

  原発問題からは、派生的に、社会の不具合がボロボロと露呈した。

  それによって、一部の人々の中から、
  義憤や、まっとうさを求める思いもでてきた。

  生命の大切さを実感したり、
  自然を見直したり、
  その大切さ、愛おしさを思い起こしたりもした。


  不安・恐怖に喘ぐ人も、
  それゆえの無視や鈍感さを増す人もいる。

  集合意識を鏡にする学びは、
  本当、ちょっと大変なのだ。

  自分の問題とは思いがたいし、
  (例えば、某社の幹部たちを見て、自分も同じ言動をするとは思えないだろう)
  何より、集団の感情が動くがゆえ、
  それらが自乗で増していく。
  集団ヒステリー的現象も容易に起こる。
  巻き込まれないでいるのは、難しい。


  そのように集合意識が動いてから、それに揺さぶられて、自己の内面を見るよりも、
  普段から、地道に自分との対話をしている方が、はるかに楽だ。

  何か起こったとき、自分の中のどんな感情が動くのかわかっていること。
  その感情が動いたとき、どんな行動をとりがちになるかわかっていること。
  それだけで、パニック度がずいぶんちがう。

  多くの人が、混乱する中で、比較的でも冷静さを保てる。
  それが、人々のためにもなる。

  それは、感じない、鈍感でいる、というのとは、ちがう。


  今からでもできる。


  集合意識が動いたら、それから距離をとる。
  ひとり静かに、自分だけの感情と対話する。

  何を不安と思っているか?

  何を恐れているか?

  何を必要と思いこんでいるか?

  今、本当に必要なものは何か?

  自分だけのこと、として見ていく。


  見ていって、掴んだものは、
  自分にとっての真実だ。


  自分にとっての真実が、ひとつ増えるごとに、
  心の平安さを支える柱がひとつ建つ。




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